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![]() 「目に見えないレイアウト」
大学を卒業すると同時に、フリーランスのライターになった。最初は週刊誌の記者で、新興宗教の内紛騒動や地方にある病院院長のセクハラ事件、元CIA工作員や元殺人犯のインタビューという初心者にしてはきつい取材が多かった。電話をかけるのも苦手になり、ストレスで軽い不眠症にもなった。
締め切り日になると、集めてきたコメントをもって印刷所に走った。その二階の一室で編集者と向かい合って原稿を書く。弱小の週刊誌だったので取材記者もアンカーもかねた。一〇行書きあげるたびに編集者が校正する。胃が痛くなって、夜食にとってあった握り寿司も喉を通らなかった。 けっきょく締め切り日にならないと、どんな記事になるかわからなかった。周辺取材を進め、いよいよ張本人へ、という段になって示談が成立していることがわかり、ボツになったこともある。当時はそういうことも多かった。 三年ほどしてオールカラーのグラビア誌をやるようになった。編集長は「もはやアメリカから学ぶものはない。世界に通用する水準の雑誌だ」と豪語していた(けれどその雑誌は、アメリカ版や国際版が出ていたわけではなく、世界的には今でもはローカル誌だが……)。 たしかに活版印刷とすべてが違っていた。まず取材して原稿を書いてから書店にならぶまで時間がかかった。そしてなにより違うのは、レイアウト先行というシステムだった。まず企画はどんな写真が撮れるかで決まった。「絵にならない」、つまり「おしゃれな写真が撮れそうにない」テーマはそもそも企画にならなかった。 カメラマンといっしょに行動し、アングルまで指示した。なにより写真中心だった。編集部へ帰ると、できあがったポジフィルムをセレクトし、タイトルをつける。タイトルは編集者の意向で変更されることもある。そしてそれらの材料がデザインにまわされる。三、四時間でレイアウトができあがってくる。文字量はしっかり決められている。一行の狂いもなく原稿を書かなくてはならない。ライターとしては不自由きわまりなかった。文字数の制約だけでなく、先に決められているタイトルに内容がしばられる。結論に合わせて記事を書く、といったぐあいになった。 現場では美しくないもの、テーマにそぐわないものは撮らない。たとえそこにあるのがテーマとかけはなれたものでも、むりやり「美しく」撮った。文章もおなじだ。もう二〇年以上前のことだが、いろいろな大学をまわってロボットの取材をやった。現在と比べると稚拙きわまりない四足歩行の、玩具のようなものしかなかった。それを写真は最先端科学の結晶にかえた。両手にかかえられるほどのちゃちなアルミのおもちゃが、乗用車ほどのマシーンに見えた。見事なマジックだった。記事はまるですぐにでも鉄腕アトムが誕生するかのような、ビッグサイエンスの到来を告げるものになった。できあがった記事を見て、ぼくは苦笑するしかなかった。 それまでは、まずなにより取材してみる。そして事実を集めて、記事になるのか検討する。これがセオリーだと信じていた。「真実を追求するジャーナリズム」というお題目を信じるほどおめでたくはなかったが、それでも書く前から記事の骨格が決められているのには閉口した。 やがて活版印刷の媒体はどんど少なくなっていった。まず読み物中心の月刊誌が少なくなくなり、週刊誌も写真の比重が大きくなった。 さらに雑誌づくりは「進化」した。レイアウト先行は究極までになった。ある雑誌から仕事の依頼がきたときのことだった。編集者と会った。若い女性編集者で丁寧な仕事ぶりが評判だった。彼女はテーブルに数枚の用紙をならべた。そこにはすでに詳細なレイアウトが描かれていた。驚いたことに写真の絵柄も鉛筆書きで描かれていた。しかもその内の数点は他誌から切り抜いたコピーがそのまま貼られていた。 「これとおなじものを撮ってくるように、カメラマンにはいっています」と彼女はいった。 もちろんタイトルも小見出しも入っていた。あとは現場に行って、そのフォーマットにそって取材し文字を埋めるだけだった。 これは広告の作り方とおなじだった。けれど今では多くの有名誌はこのようにしてつくられている。雑誌の本文記事もレイアウト先行の広告的なシステムで制作されている。広告的とは、すなわち出口=結論があらかじめ設定されていて、それにむかって材料をセレクトし、都合のいいものだけ集めて編集する。読者を結論にむかって誘導する仕組みである。 この仕組みでできあがった記事を私たちは目にして、大げさにいえば世界を解釈しているともいえる。イラク侵略戦争において、日本のテレビ報道の一部が、アメリカ軍に嬉々として同行し、そのコントロールのなかで「ライブ」なニュースを流した。今やテレビニュースもレイアウト先行になっている。 ではそのレイアウトはだれがつくるのか?戦争の場合はその遂行者たち=編集者がはっきりしているから、わかりやすい。けれど日々発生する膨大な情報は? それを担当する編集者がフォーマットを決めているわけだが、ではそこに彼らの個性が生かされているのか? 残念ながらそうではない。そこには独創も逸脱もない。彼らはさらに大きな、目に見えないレイアウトによってしばられている。それはなんなのか? ぼくにはすぐに答えが見つからない。ただいえるのは、今必要なのは言論の自由でも思想の自由でもなく、思考の自由といったものではないかと思う。たぶに私たちの思考も目に見えない大きな力によって、すでにレイアウトされているのかもしれないのだから。 神奈川大学評論2004年49号 掲載
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