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![]() 「世界の中心は六〇憶」
最近は名称をなんでも略してしまうのが流行っている。あれは「セカチュー」というらしい。ピカチューとは違ってこちらは小説だ。文章は凝っているが、物語はいつかだれもが読んだことのある、典型的な悲恋パターンである。
大ヒットの理由にはそのタイトルがある、ともいわれている。けれどこれはハーラン・エリスン『世界の中心で愛を叫んだけもの』というSF短編にヒントを得たものだ。「けもの」とつくだけで雰囲気はガラリとかわる。もちろん内容もまったく異なる。 ほとんど共通する二作のタイトルのなかで、ぼくは「中心」というのがことに気になった。ここで愛を叫んでいるのはいうまでもなく自分=自己だが、その自己が世界の中心であるのは、考えてみれば当たり前だからである。そうでなければ世界は成立しない。世界とは自己という存在が確立して、初めて立ち現れるものだから。 ただそこで問題なのは「けもの」にとって世界は、そのとき、そこにあるものでしかないということだ。それ以外の世界はない。つまり世界は概念ではなく、自分からみた周囲にだけ存在する、そのときどきの瞬間的な状況でしかないのだ。だから「けもの」なのである。まず世界が存在し、自己はその全体のなかの部分である、などということを考えるのは、人間だけである。いまこのときも、世界のどこかでは、自分とおなじような存在が苦しんでいる、恐れおののいている、などという想像力は、世界が概念となって、ようやく出てくるものだ。 ところがどうも最近、人間界も「けもの」的に世界をとらえる傾向が強くなっているように感じられる。 動物界と質は違ったとしてもやはり人間も、過酷な競争原理にさらされているのはおなじだ。だからともすれば世界という概念を忘れ、自己中心で自己愛に終始しがちだ。というより、もともと人間も放っておくと徹底的な自己中心、ナルシシズム一辺倒になる存在なのだ。だから私たちは執拗に他者の存在を、自己も人類という存在のパートなのだということを、日々いいつづけなければならないのである。人間といえども、そんなことはすぐ忘れるからだ。自己中心を捨てよ、というのではない。それは究極的には自死になってしまう。それはいけない。 いま人類愛、世界平和、人権などという言葉は、口にするのも恥ずかしいほど力を失っている。けれどそうしたテーマを失ったら、他者の存在という世界観そのものが解体する。「自己中心」で愛を叫ぶただの「けもの」になってしまう。 このあいだ取材で五歳の子供たちに会った。画用紙に真四角の川を描く子が少なくなかった。電車の車窓から見える川は、鉄橋と鉄橋で視覚的に切りとられ真四角に見えるからだ。この子たちにとって、川は山から蛇行しながら流れ、やがて海にいたるという、あたりまえの知識がない。川がまだ概念化されていないともいえる。即物的に見た光景だけが彼らの世界観だ。こうした子たちが出てきたのはここ十年のことだという。 いったいどうしたら、この地球上には六〇憶もの世界の中心が存在するのだということを、こうした子供たちに教えることができるのだろうか。それはまず大人たちが、もう一度、自己と他者、そして世界の中心について考えてみるしかない、と思う。 ウィズ・ファーマ2005 Vol.1 掲載
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