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![]() 「マニーな人々」
半年ほどまえに、地下鉄の車両で隣に立った若い女性に「お母さん、お母さん」と耳元でささやかれつづけたことがある。
最初は何のことかわからずに、あたりを見まわしたが、彼女がぼくにささやいているのだということに気がついてドキッとした。彼女の目線は床に落ちているのだが、あきらかにその声はぼくに向けて発せられている。車内は通勤時間の満員さほどではないが、肩がふれ合うくらいには混んでいた。そばの乗客は気づいているのかいないのか、はっきりしない。彼女のささやき声の大きさと、周囲の人々との距離から、それはきわめて微妙なところだった。からかわれているようにはおもえなかった。いまにも泣きだしそうなほど深刻な彼女の表情がそれを物語っていた。 彼女はきわめて規則的に、五秒ほどの間隔をあけて「お母さん」とささやきつづけたあと、停車した駅でふいに降りていった。濃紺のロングスカートに白いブラウスを着た色白の女性だった……。 街で見かけたヘンな人物のことを、いつのころからか「マニーな人」と、ぼくらでは呼ぶようになった。マニーの語源はマニアックなのかというと、そこは実にいいかげんで、いわゆるマニア=オタクという連想で考えて、なんとなくそうなったというくらいのことだ。もっともこの言葉は一般化しているわけではないので、いいかげんでもかまわないのだが。 ときたま、街で見かけた「マニーな人」について友人たちの間で話題になることがある。渋谷の街にいる有名な(ぼくの周辺では)「マニーな人」に、スイングジャーナルとよばれる男がいる。彼が出没するのはおもに書店の雑誌コーナーである。いつもおなじ濃紺のスーツを着用し、肩までの長髪、歳はすでに四十代も半ばだ。きまって読んでいるのはスイングジャーナルだ。これだけなら少しもヘンなところはない。 しかし、よく見るとズボンの裾はほころびどす黒く変色している。髪もいつ洗髪したのかわからないほど脂ぎっている。そこで、はじめて彼がマニーな人ではないかと気がつくのだ。その服は一年中変わらない。ぼくは彼をもう四年近くにわたって見ている。彼はたいてい一時間でも二時間でも棒になったように立ち読みしている。もしかするとスイングジャーナルを全頁立ち読みしているのかもしれない。目が悪いのか、頁から目を十センチぐらいのところにくっつけてなめるように読むのが特徴だ。隣にいって耳をすますとぶつぶつと声をだして記事を読んでいるのがわかる。 マニーな人は海外映画でも、よくお目にかかる。ベンダースの『パリ、テキサス』ではフリーウエイを走り抜ける車の列に向かってひたすら現代世界の危機を訴えつづける男がいた。驚くほど饒舌に言葉がつむぎだされてくる。もしネクタイをしめて演壇で聴衆に向かって演説していたのなら、彼はけっしてマニーな人ではなかっただろう。ヘンなのは言葉ではなく、そこが聴衆のいないフリーウエイであるからだ。 タルコフスキーの『ノスタルジア』では世界に絶望した男が、マルクス・アウレリウス皇帝の騎馬像にのぼって勝手に演説をはじめる。騎馬像がある広場のたれ幕に「我々は狂っていない、正気だ!」と書かれている。演説は何時間もつづく。彼の最後の言葉は「何という世界なんだ。狂人が恥を知れと叫ばなければならぬとは」だった。 現実にぼくが出会う(あるいはすれ違う)マニーな人は、この映画の登場人物のように饒舌ではない。たいていブツブツと聞きとれぬほどの声でつぶやいているか、あるいはただどなり散らしているかだ。 欧米の街角にはほんとうにあのような饒舌なマニーな人がいるのだろうか?もしかすると、自己主張を前提とする文化と不言実行をよしとしてきた文化との違いは、マニーな人々のスタイルにも影響を与えているのか? もうひとつ、ついこの前ビデオで観たジョン・セイルズの『希望の街』でもマニーな人が登場していた。彼も街のいたるところに出現し、つじつまのあわないことを人々にひたすらしゃべりつづける。映画は彼のせりふで終わる。彼がスクリーンの向こうから観客席にくり返し叫びつづけるのは「ヘルプ、ヘルプ!」という言葉だった。 この「ヘルプ!」という言葉をきいて、地下鉄電車のなかで、ぼくの耳元でささやきつづけた彼女の「お母さん」という言葉を思いだした。いまも彼女は電車のなかでささやきつづけているのだろうか? しかしぼくは彼女のお母さんではなく、手をさしのべ助ける=ヘルプすることもできない。できるのはただ、マニーな人々の声に黙って耳を傾けるだけなのだ。 月刊現代(1994/11月号)掲載
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