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「思索の時代」 2008.4.18
 英国のSF作家、アーサー・C・クラークが亡くなった。多くの作品を残したが、なかでも有名なのが『2001年宇宙の旅』だ。スタンリー・キュブリックによって映画化もされた。
 その作品で印象的だったのが、HALの反乱である。高度に発達したコンピュータが人間に反乱を企てるという着想は、もしかすると未来には、そういうこともあるかもしれないと思わせた。
 しかし、現代科学の延長において、そんなコンピュータをつくれないということは、ほぼはっきりしている。人間の思考を情報処理というシステムに置き換えること自体が、不可能なのだ。
 思考の手前には意思がある。これを科学技術によってつくりだすことはできない。さらに意思という「心」の手前には「感じる」という内面の動きが存在する。これは言葉にすらできない微妙で瞬間的な意識、感覚でもある。
「考える」ということは「感じる」という心の動きを前提にしている。人間はまず感じなければ、考えることはできない存在であると思う。「思い」がなければ考えることすらしないはずだ。思考とはけっきょく人の感情や思いを伴いながら、深まったり発展したりするものなのだ。
 が、どうも最近、その思考がヘンだ。感じるということと無関係に、ひとつの考えがあたかも自動化されて出てくるような場面を目撃する。コンピュータで情報を検索し、それらをパッチワークして、まるで自分の思考のように誤解してしまう人が少なくない。情報処理と思考が一緒くたになっている。雑誌や本で、やたらと情報整理術という言葉が踊っているのも、そのあらわれか。
 自力で考えることを放棄して、検索に走る。思考は検索という言葉に転換してしまったかのようにも思える。しかし、みずから考えるというやめてしまってはもはや人間ではない。HALは生まれなかったが、人間がコンピュータ化してしまってはもともこもないではないか。

※このエッセイは西日本新聞「本の森」発表の記事に大幅な加筆改稿したものです。


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